『最後のダ・ヴィンチの真実 510億円の「傑作」に群がった欲望』2020/10/5
ベン・ルイス (著), 上杉 隼人 (著)

 13万円で落札された絵画はなぜ12年で510億円になったのか、アートの価値は誰がどのように決めるのか、価値と値段は比例するのか……最後のダ・ヴィンチ作品の発見として注目を集め、その後、史上最高額(510億円)で落札され話題となった『サルバトール・ムンディ(世界の救世主)』。その謎に包まれた足跡を追う中で見えてきた美術界の闇を描いた衝撃のノンフィクションです。
 修復前の「大破」した状態の画像の他、ダ・ヴィンチが『サルバトール・ムンディ』のために描いたスケッチや、弟子による複製画など、多数の貴重な画像もカラー写真で掲載されています。
『サルバトール・ムンディ』は、100年ぶりに美術市場に現れた当初は、わずか1175ドル(約13万円)で売買されたのですが、その12年後の2017年には、クリスティーズのオークションで、美術品としては史上最高額の4億5030万ドル(約510億円)で落札されました。……この金額は、なんと東京スカイツリーの建築費(400億円)を優に超えているのだとか! 
 えええ! どんな作品なんだよ! 俄然見たくなりましたが、この本では、この『サルバトール・ムンディ』をカラー写真で見ることが出来るのです。しかも購入時、上塗りをすべて洗浄、一度目の修復、さらに落札の時の状態を並べて!
 それだけでなく、ダ・ヴィンチの工房で弟子たちが描いたと言われている『サルバトール・ムンディ』などの関連作品もカラー写真で見られます。本文を見ながら、これらの作品を眺めると、美術作品の修復や取引、鑑定などを、より実感として理解できるような気がしました。
 写真を見ると、「ひどい状態」と言われている購入時でも、ダ・ヴィンチさんの傑作『モナリザ』と同じ雰囲気が感じられます(実際この作品は、「男性版モナリザ」と言われています)。この本でも、次のように書いてありました。
「この絵は、一言でいえば、「レオナルドの魔法」だ。(中略)顔はやわらかに、手は鮮明に描かれているのだ。(中略)右手にシャープに焦点を当てて近くに描き、顔をスフマートの霧に包んだこの技法は、「消失の遠近法」を理解する画家ならではのものだ。」

 著者のルイスさんは、1500年頃に制作されたこの小さなキリスト画が、1649年のイングランド王チャールズ一世処刑後、20世紀にアメリカの無名で善良な美術愛好家の手に渡り、そこから再び表舞台に登場するまでを詳細に追っています。
 美術商(ロバート・サイモンさんたち)にネットで購入された『サルバトール・ムンディ』は、購入時には「大破」していたのですが、それを修復し、幾多の苦労の果てになんとか真作と判定され、あるロシア人大富豪にようやく大金で売却されました。その後、その大富豪がこれを再びオークションに出品、最終的には、サウジアラビアの謎の人物(ムハンマド・ビン・サルマーン皇太子?)に落札されたのですが……その陰には、歴史・経済・政治も複雑に絡んでいたのでした……。
 このミステリアスな展開や、一見華やかに見える美術商の世界が実はかなり綱渡り(商品や手数料は高額だが、商品の入手や保管、ギャラリー運営のコストも巨額)という業界の事情も読みごたえがありました。名画の変遷や、修復、さらにダ・ヴィンチさんの描き方など、美術に関する蘊蓄も多くて、とても勉強になりました。
 そして個人的に一番関心があったのは、やはりこの『サルバトール・ムンディ』は本当に「真作」なのか、ということ。
 実はダ・ヴィンチさんには弟子が多く、工房作品も多いようです。だからその作品は、次の四に分類されるのだとか。
1)レオナルド(ダ・ヴィンチ)自身の作品
2)レオナルドが工房の弟子たちと描いたもの
3)レオナルドが構想した、あるいは下絵は描いたが、実際に製作したのは工房の弟子たちで、最後にレオナルドが少しだけ手をいれたもの
4)レオナルドはまったくかかわっていない、弟子たちが工房で製作したもの
   *
 この作品について、ルイスさんは次のように言っています。
「これがもしもレオナルドと工房によるものであれば、工房のもっとも質の高い作品のひとつである。掲げられた手、髪、衣装の刺繍でそうだとわかる。ほかの工房作品に顕著に見られるような欠陥は確認できない。遠近法はしっかりしているし、甘ったるく気が抜けたような笑みもなければ、衣装の襞も細部までていねいに描かれており、スフマートのぼかし方も効果的だ。つまり、ロバート・サイモンの『サルバトール・ムンディ』には、もっとも広く多くの人に知られているレオナルドの作風がいちばん美しく表現されている。その典型例ではなく、最高例だ。」
 写真を見る限り、まさに「男性版モナリザ」と言われるにふさわしい、優しさ静けさ気品に満ち溢れているので、たとえ工房作だとしても、とても素晴らしい出来ばえの作品だと思います。雰囲気が『モナリザ』に似ているので、私も直感的に「ダ・ヴィンチさん自身の手が入っているに違いない」と考えたのですが、次の文章を読んで、うーん……と自信がなくなってしまいました。
「どうやら(修復をした)モデスティーニは『サルバトール・ムンディ』の口元の類似性を見て取ることと、『モナリザ』の口元をひな型に『サルバトール』の口元を修復することの線引きをはっきりさせなかったようだ。」
 実はこの作品、発見時(修復前)は、次のような状態だったのです。
「絵全体を見ると、レオナルドが描いた元の絵の具の層の六割は失われていると思われた。彼が意図したとおりに描いて完成させた状態が生き残っているのはおそらく二割。そして残り二割は完全に崩壊していた。最大の損壊はもっとも重要な部分に刻まれていた。『サルバトール・ムンディ』は肖像画であるから、顔が、特に両目が重要だ。その顔とふたつの目の損壊がいちばん激しかったのだ。」
 だから顔の修復には、『モナリザ』も参考にされたのでした。
 そうなんだ……そのせいで、すごく『モナリザ』っぽくなったのかも……。
 それでも個人的には、この作品は、やっぱり少なくともダ・ヴィンチ工房作ではないかと推察しています。というのも、この作品には、「中央下に大きな(クルミの木の)節が隠されていた」という事実があるからです。それが長い間、この作品が顧みられなかった理由の一つにもつながっているのですが、逆に言うと、贋作者ならそんな板を、ダ・ヴィンチの贋作を作るために選ばないと思います。しかもこの作品は、世界の救世主(キリスト)像という「売りやすいモチーフ」を描いていて、実際、ダ・ヴィンチの弟子たちがこれと似た作品を、たくさん作っています。
 これらの情報を考慮すると……この『サルバトール・ムンディ』は、弟子たちに模写させて売るための「原画」としてダ・ヴィンチ本人(と弟子?)が描いたものではないかと思うのです。弟子たちを食べさせるためには、訪れた顧客がすぐに買いたくなるような作品を描かせてストックしておいたほうがいいし、模写することで弟子たちの技量もあげられます。救世主が手に持っているのが「水晶(透明な地球)」というのも、自分の工房の技術の力量を誇示するため(あるいは弟子の描画技術を高めるため)に、素人には描くのが難しいものを、わざと入れたのではないでしょうか。
 もしかしたら、「節」のある板も、意図的に選んだのかもしれません。数多くの模写の中で、どれが「原画」なのかを明確にできますし、訪問客が模写ではなく原画を買いたがるのも抑止できますから。
 でも……もしもこれが「描写見本・教材用の原画」だったとすると、この水晶の部分の描写が、簡単すぎるのが問題かも。この本には、次の記述がありました。
「レオナルドは光学を深く研究し、それに関する文章も残している。だが、水晶の向こう側に、普通であれば見られるはずのキリストの衣服の歪みや反転が確認できない。」
 うーん、やっぱりただの妄想なのかな……(笑)。ちなみにルイスさんは、この絵はフランス宮廷からの依頼で描かれたのではないかと推察しています。でも、そんな権力者のために描いたなら、「節」のある板は選ばなかったのではないかなーと思うのですが……。
 まあ、こんな風に「勝手な推理」も楽しめるほど、いろいろな情報を知ることが出来る素晴らしい美術ノンフィクションでした(笑)。
 それにしても……この作品が真作なのかどうかは分かりませんが、たとえ真作だとしても510億円は途方もなく高すぎると思います。
『サルバトール・ムンディ』や美術業界について、ルイスさんは、次のように語っています。
「『サルバトール・ムンディ』がまさにそうだが、幻の傑作が発見されたとしても、それを鑑定するための今のシステムには馴れ合い的な要素があまりに強く、いかなる肯定的な評価も決して信用されることはない。確たる判断が示されることはまず期待できないのだ。奇跡でも起こらない限り、『サルバトール・ムンディ』はどちらともつかない状態で果てしなく漂うだけで、それが美術史の頂点を飾るに値するレオナルドの作品であるという永久不変の評価を得ようとどんなに努力しても、いつまでたってもどこまで言っても決してそれが実現することはない。」
 ダ・ヴィンチ幻の名画『サルバトール・ムンディ』を巡る光と闇。スリリングな展開にわくわくしながら、美術知識も知ることが出来る素晴らしい美術ノンフィクションです。美術館で展示されるような素晴らしい名画が、どのように取引されてきたのかを詳しく知ることが出来るだけでなく、美術商や修復家、鑑定士の世界も垣間見ることが出来て、とても読みごたえがありました。ぜひ読んでみてください。お勧めです☆
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