『フォッサマグナ・中央構造線を行く―断層沿いの交易路と文化流通の軌跡』2010/11/1
棚瀬 久雄 (著)

 フォッサマグナと中央構造線という日本の二大構造線を旅する地理・歴史紀行です。
 小学生の頃、「フォッサマグナ」という言葉を知り、なんか凄そうと思ってワクワクしたのですが、教科書の説明がよく分からず、実際にはどんなものなのかについて、あまり知らないまま大人になってしまいました(汗)。この本によると、次のようなものだそうです。
「フォッサマグナ西縁は新潟県糸魚川市から姫川に沿って南下し、諏訪湖を経て静岡市へと抜ける延長250kmの構造線である。」
「フォッサマグナとは、日本列島を地帯構造の上から西南日本と東北日本とに分ける大断層地帯で、1885年にドイツの地質学者のH・D・ナウマンにより初めて記述された。」
「(前略)フォッサマグナは二千五百万年前から七十万年前頃までの間に形成されたといえる。この間、日本列島が伊豆・小笠原弧に衝突し、東北日本と西南日本が逆に回転し始めたことにより生じた巨大な裂け目がフォッサマグナの西縁である糸魚川-静岡構造線となった。」
 日本列島の誕生過程で出来てしまった裂け目のようです……なんか、凄いスケール感ですね☆
 ところが……日本には、もっと大きい構造線があり、それが「中央構造線」なのです。「フォッサマグナ」に対して、「中央構造線」の方はわりと普通の言葉なので、小学生の頃の私は、こっちの方はスルーしてしまったようなのでした……全然記憶がない(笑)。この本によると次の通りです。
「一方、中央構造線は諏訪湖の近くから天竜川の東の構造谷を南下し、静岡県水窪町から奥三河を経て豊川沿いを下り、三河湾および伊勢湾を横切り、紀伊半島から四国を縦断した後、九州を横断して熊本県八代市に至る実に900 kmにも達する一大構造線である。」
「西南日本を地帯構造から内帯と外帯に限る境界線があり、この線を中央線と呼ぶことを提唱したのもフォッサマグナの命名者であるナウマンである。」
「なお、九州における中央構造線の走行位置については諸説があり、必ずしも統一された見解はない。」
 この本は、著者の棚瀬さんが、実際にこのフォッサマグナと中央構造線を旅した時に、歴史・文化・地学的な調査&考察を記した格調高い紀行文です。
「はじめに」と「序章」で、二大構造線の地学的解説&概要を行った後、「第1章 フォッサマグナ西縁を南下」「第2章 中部地方の中央構造線に沿って」「第3章 紀伊半島の中央構造線を辿る」「第4章 四国北縁の中央構造線を行く」「第5章 九州横断の二大構造線を巡る」の本文の方では、旅のルートや途中の城やお寺などの史跡、、歴史や祭りなどの文化、鉱物資源などの現地の歴史が詳しく語られていきます。こんな格調高い旅も素敵ですね。
「両構造線に沿って走る道を最初に流通したのは、信州の霧ヶ峰や八ヶ岳一帯で採取された黒曜石である。次いで、この道を通って運ばれたのは縄文時代から弥生時代にかけて勾玉の材料となった硬玉翡翠である。当時、翡翠は我が国では姫川上流と青海川河口で産するのみであった。」
 ……古代には、黒曜石や翡翠が、この構造線を通って運ばれたんですね! ロマンを感じます。中世に塩を始め多くの物資を運ぶ道だった「塩の道」も、この構造線の一部なのだとか。
 ただ……残念ながらこの本には写真がほとんどなく、各章の先頭に掲載されている地図にも、訪れた場所やルートの記載がないようだったので、写真やイラストマップがあると、もっと読み応えがあったのにな、とも感じてしまいました(汗)。
 フォッサマグナ、中央構造線……二大地溝帯をのんびり旅して、各地の文化、歴史に思いをはせる……いつか私もそんな旅をしてみたいと思わせてくれる紀行文でした。こんな格調高い旅はとても出来ないとは思いますが……。読んでみてください。
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