『現代メディア哲学 複製技術論からヴァーチャルリアリティへ (講談社選書メチエ)』2022/8/12
山口 裕之 (著)
新聞やテレビ、電話や電子メールから、スマホで見る動画、さらにはVRまで、これらはすべて「メディア」ですが、そもそもメディアとは何なのでしょう? ヴァルター・ベンヤミン(1892-1940年)が残した複製技術論を梃子に、メディアの本質は「複製(コピー)」であるという事実に基づいて、技術の進化とともにメディアが及ぼしてきた影響を考察している本で、内容は次の通りです。
第I章 メディアの哲学のために
第II章 技術性と魔術性
第III章 メディアと知覚の変容
第IV章 メディアの政治性
第V章 ハイパーテクストの彼方へ
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「第I章 メディアの哲学のために」には、次のように書いてありました。
「(前略)ここで論じている「メディア」は、基本的に複数形で用いられるが、伝達の「媒介」、「仲立ち」として機能するものであり、伝達されるべき対象(オリジナル)の発信者と、そのメッセージの発信者の「中間」に置かれるものとして想定されている。この中間に位置するメディアの最も本質的な機能は「伝達」である。」
そしてこの伝達のためには「保存」や「複製」が必要で、メディアは「技術」と強く結びついているのです。
「第II章 技術性と魔術性」では、ベンヤミンの複製技術論の解説にともなって、次のようなことが語られていました。
「高度な複製によって、いまここに一つしかないものという、それまでの芸術がもっていた「一回性」、「真正性」は失われる。それによって「ホンモノ」の芸術がもっていたオーラは消え去る。」
「(前略)技術的複製可能性の精度が上がるにつれて、「芸術作品」からそれがもともともっていた魔術的要素が失われてゆく。しかし、それと同時に、魔術的要素は別のかたちをとって、あるいは別の次元で、一層強力なものとなってゆく。技術的に完全な複製可能性が達成されたとき、魔術的要素は完全に払拭される。それと同時に、別のかたちをとった魔術性は最大となる。」
「この再現性の精度、つまり世界をどれだけ正確に再びありありとしたものとして甦らせることができるかは、メディアの技術レベルに依存する。」
そして「第III章 メディアと知覚の変容」では、次のようなことを知りました。
「(前略)歴史の過程のなかで転換してゆくメディアの技術的条件が、人間の知覚のあり方を規定してゆくというのが、この複製技術論の最も根本的なテーゼなのである。」
「(前略)ベンヤミンが複製技術論の基本的な論調としているように、これまで特権時な社会層の専有物であるかのごとく位置づけられてきた芸術が、その「オーラ」を失うことによって、社会の下層にある大衆のすみずみにまでゆきわたるという視点からすれば「オーラの衰退」はむしろベンヤミンが考えるような下部構造の転換にふさわしい、必然的な流れであるということになる。」
そして個人的に最も考えさせられたのは、「第V章 ハイパーテクストの彼方へ」。ここまでは、ほとんどがベンヤミンやマクルーハンなど少し古い時代のメディア論の解説だったのですが、ここからはいよいよ現代の技術について語られていくからです。次のような文章が印象に残りました。ちょっと長いですが、以下に紹介します。
「(前略)「映画」よりも、例えばCG(コンピュータ・グラフィックス)の映像の方が、新たに世界を構築する可能性はさらに広がる。CGにおいては、その素材さえも外界に依拠する必要がなくなる。CGで描きだされる世界は、その意味で「現実」との対応関係をもつことなく成り立つ世界である。VRで経験する仮想的な世界は、「現実」ときわめて正確に対応する場合もあるが(訓練のためのシミュレーションなど)、もちろん、完全に作り出された仮想的な空間である場合も多い。そのときわれわれが感じる「リアリティ」とは何なのだろうか。」
「(前略)技術的複製可能性のレベルが最大になったとき、外界の「現実」を映し出すのではない映像によって、ある新しい世界が自律的に、完全に「リアル」なものとして現出するとすれば、いずれにしてもそれはもはやオリジナルとしての世界の再現前(コピー)ではなく、それ自体がオリジナルと認識されるような新たな世界の誕生である。そのような技術的複製可能性の極点を、例えば映画『マトリックス』や『攻殻機動隊』に見られるような、直接人間の神経組織に電気的に接続する技術装置に見てとることもできる。「現実」の外的世界からの刺激が人間の身体内の知覚器官を通じて脳に伝達される電気信号と、全く同内容の情報を伝達する人工的に作られた電気信号とは、脳のなかでは区別することができない。VRの終極点は、このような思考モデルである。そのとき、VRの世界のなかの「リアリティ」は、もはや「現実」に従属するような対応物ではない。もう一つの自律的な世界秩序のなかで生み出されている、模倣物ではないホンモノの身体感覚なのである。(中略)
ここで生じていることは、技術の進展にともなって引き起こされる、別のかたちでの魔術性の完全な支配である。メディアの技術性の進展は、「現実」の世界における世俗化を推し進めてゆき、最終的に技術的複製可能性の極点においてオーラはゼロとなるだろう。しかし、それと相反するように、仮想的な「リアリティ」の世界では、技術的複製可能性が増してゆくにつれて、別のかたちでオーラが増大してゆく。」
……ベンヤミンさんたちの時代と違って、現代のCGやVRなどは、それ自体がオリジナルでありコピーでもある芸術なので、現代のメディアに、ベンヤミンの複製技術論が適用可能なのか(例えば、「オーラ」が入れ替わる必要性があるのか)について、少し疑問を感じてしまいましたが……「メディアの技術的条件が、人間の知覚のあり方を規定してゆく」という面では、まだ有効なのかもしれません。
そういう意味で、「メタバース」などのCGやVR世界への没入が始まっている私達にとって、ベンヤミンの複製技術論などの古いメディア論は、それら新しい世界(メディア)について深く考えるための、一つの視点を与えてくれるのかもしれないと感じました。
この他にもハイパーテクストについての「伝統的な文字メディアによる書物も、ハイパーテクストの世界に持ち込まれると、実用上、分割されてゆく」などの指摘なども興味深く感じました。
かなり難解で読みにくい本でしたが、ベンヤミンの複製技術論やメディア論に興味のある方は、ぜひ読んでみてください。
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なお社会や科学、IT関連の本は変化のスピードが速いので、購入する場合は、対象の本が最新版であることを確認してください。
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