『無用の効用』2023/2/21
ヌッチョ・オルディネ (著), 栗原 俊秀 (翻訳)
無益さにこそ価値がある!
グローバル経済、利益中心、効率優先……大切なものはどこへ行った? 錚々たる古の文人・思想家の言葉をたどって、生きる意志を再発見することへ導いてくれる本で、内容は次の通りです。
はじめに
第1部 文学は〈役立たず〉だが〈役に立つ〉
第2部 企業としての大学と、顧客としての学生
第3部 所有することは殺すこと――人間の尊厳、愛、真理
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「はじめに」には、本書のテーマや概要が次のように書いてありました。
「(前略)この本では、「役に立つ(立たない)」という言葉の意味を、まったく別の観点から考えてみたい。この世には、実用的な目的にとらわれない、「知ること」そのものが目的であるような知識がある。そうした知識がどう「役に立つ」のかを明らかにすることが、この本のテーマである。」
「(前略)実利主義が幅を利かせる世界では、交響曲よりもハンマーが、詩よりもナイフが、絵画よりもスパナが役に立つ。工具の使い道は簡単に理解できるのにたいし、音楽や、文学や、美術がなんの役に立つのかを理解することは、はるかに難しいからだ。」
「(前略)より良い世界について考えようとする衝動は、「余剰」と見なされる活動の根底にこそ見いだされる。そして、社会にはびこる不公正、わたしたちの意識に岩のようにのしかかる重い不平等を、消し去るとまでは言わずとも、せめて和らげるユートピアを思い描くのは、「過剰な生」を生きる者の特権でもある。(中略)平板な生、「生ならざる生」を、精神や人間的な事柄のための好奇心によって指針を与えられる躍動的な生に変えるには、「役に立たない」と思われる行為がなんとしても必要なのである。」
「(前略)抵抗し、希望の灯りを守り、尊厳ある道を歩むための一条の光を垣間見るには、古典や、教育や、芸術が生み出す余剰や、なんの利潤ももたらさない営みが、わたしたちの助けになるはずだから。」
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「第1部 文学は〈役立たず〉だが〈役に立つ〉」では、アリストテレス、プラトン、カント、モンテーニュ、ボードレール、ハイデガー、荘子や岡倉天心などの有名な古典や著作から、「無用の効用」について書かれた部分や考え方が紹介されていきます。
例えば「25章 イタロ・カルヴィーノ――「無私」が本質を明らかにする」には、次のように書いてありました。
「難しい問題を解くという楽しみと満足のほかにはいかなる目的ももたない、まったくの無私と思える行為にたいして人間が示す熱意が、思いもよらない領域におけるなにか本質的なものを啓示し、その結果がはるか遠くまでおよぶということがよくある。」
また、本書の中で一番心に残ったのが、「26章 エミール・シオランとソクラテスの笛」で紹介されていたソクラテスの逸話。死刑が決まった後、処刑人が毒にんじんの調合を進めるかたわらで、ソクラテスは笛の練習に没頭していたそうです。
「そんなことをして、なんの役に立つのか?」と問われたソクラテスは、平然とした態度で答えたのだとか。
「死ぬ前に、この曲を吹けるようになるさ」。
……うわー……と感心する一方で、もしかしたら私自身もそうするかも? とちょっと思ってしまいました。この先、死刑になるだけの運命を待つときに、何もしないでいると、自分の中に生まれるのは「恨みや後悔」だけだろうし、そんな陰鬱さに浸りきっていても何もならないどころか、楽しくない人生で終了することは明らかだからです。まさに「小人閑居して不善をなす」……だったら、せめて笛の練習で上達感を感じていたほうが、ずっとマシです。ソクラテスさんにも、せめて笛を吹く程度の自由があって、本当に良かった……。
……でも、待てよ。これが「死刑」じゃなくて「地球滅亡の日」を待つ、という状態だったら、私はどうするんだろう? うーん、その場合は、貯金のありったけをはたいて、美味しいものを食べるとか、高価なブランドものを着るとか、そういう安易な気晴らしを選んでしまいそう……やっぱり、ソクラテスさんの域に達するまでの道のりは遠いようでした……。(もっとも、この場合は大多数がそういう道に走りそうだから、のんびり屋の私はすっかり出遅れて、結局は何も買えないまま、身近にあるものだけで地球滅亡の日を過ごすことになり、やっぱり笛(趣味の管楽器)を吹いて過ごすことになるかも(苦笑)。それに、そんな時に何かを売ってくれる人なんて誰もいないのかも。もうお金を稼いでも何にもならないんですから……)
えーと……ソクラテスさんの笛の逸話が素敵すぎて、かなり妄想が暴走してしまいましたが、「第2部 企業としての大学と、顧客としての学生」の「9章 過去の言語はなんの役に立つのか?――ロックとグラムシ」でも、また別の妄想が暴走してしまいました(笑)。
本書のなかでは、ラテン語やギリシア語の講義を履修する学生は減少を続けていて、このままだと講義は廃止されかねないことが危惧されていたのですが、私自身は逆に、一般人に「古文」って必要なの? と思っている側だったからです。しかも私は、人間が「古文」の技術を失って読めなくなる前に、AI(人工知能)に読み方を教えておけば、新しい古文書が見つかったときに、AIが読み解いてくれるんじゃない? などと不埒なことを考えてすらいたのです。
それに対して本書は、「古典を読むことは、人間としての成長にとても役立つ」という立場のようで……すると……AIに古典を読んでもらうことは……AIの「心の豊かさ」を育成していくことになるのだろうか……あれ? そもそも私たちって、自分の「人間性」をどうやって育んできたんだろう……私自身については……やっぱり古典を含め、他の人々が書いてくれた本や、絵画、音楽などを読む(感じる)ことで育んできたんだろうけど……。
……という考えても何にもならないような「役に立たない」妄想を暴走させてしまったのでした(笑)。
さて、この辺で本書にきちんと戻ると、「17章 「知識とは、それを誰かに渡しても、自分が貧しくならない財産である」」の次の記述には、とても共感させられました。
「利潤という支配的な論理を骨抜きにできるのは、知識だけである。知識を分け合っても、誰も貧しくなることはない。それどころか、知識を与える者と受けとる者は、ともに豊かになるのである。」
……まさしく、その通りですね!
さらに「第3部 所有することは殺すこと――人間の尊厳、愛、真理」でも、次のような心に響く文章を、たくさん見つけることができました。
・「倫理学でも、宗教学でも、政治学でも、哲学でも、自然科学でも、みずからの真理を唯一の正解とみなすことは、真理の探究を拒絶することに等しい。」
・「「不確かさ」のなかで生きるべく定められていることの自覚、自分はもろい存在であると認める慎ましさ、間違いを犯すリスクにさらされているという意識だけが、他者とのほんとうの出会い、わたしたちとは違ったふうに考える人たちとの出会いに気づかせてくれる。だからこそ、意見や、言語や、宗教や、文化や、民族の多様性は、人類にとっての危険な障害物ではなく、抱えきれない富と見なすべきである。」
・「人間の価値は、その人物が所有している真理、あるいは、所有していると思い込んでいる真理によって決まるのではない。そうではなく、真理に到達するためになされる誠実な努力こそが、人間の価値を決めるのである。」
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とても哲学的に、いろんなことを考えさせてくれる本でした。
本書を通して感じたことは、「役に立たない文学や芸術を愛することは、人間として成長するのに役立つ」ということ。それが『無用の効用』なのでしょう。もっとも私自身は、本書を読み終えた今でも、「交響曲ハンマーも詩もナイフも絵画もスパナも」すべて同じぐらい重要だと思っているのですが……。
みなさんは何を考えるでしょうか。ぜひ読んでみてください。
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