『海馬を求めて潜水を――作家と神経心理学者姉妹の記憶をめぐる冒険』2021/6/23
ヒルデ・オストビー (著), イルヴァ・オストビー (著), & 2 その他

 探究心旺盛なノルウェー人のオストビー姉妹がコンビを組んで、記憶の不思議について考察している本です。記憶研究の歴史を紐解き、記憶に問題を抱える人(テロの生存者、海馬を損傷した人など)や、記憶のスペシャリスト(研究者、タクシー運転手、チェスのグランドマスター、舞台女優、オペラ歌手、記憶力チャンピオン、未来予測家など)へのインタビューを通して、「記憶」の姿が少しずつ見えてきます。
 本書のタイトル『海馬を求めて潜水を』の「海馬」とは、記憶を司っている脳の部位のことですが、表紙のイラストになっているタツノオトシゴに似ている姿をしているそうです。この「海馬」は、1564年にイタリアの医師が発見して命名したのですが、どんな機能をしているのか、その時点ではまったくわかっていなかったようです。
 ところが、てんかんの治療のために脳の両側の海馬を切除されてしまった患者さんが、長期記憶が出来なくなってしまったことで、その機能が少しずつ明らかになってきました。こんな手術は現在では考えられないものですが、その危険性が分かったのも、この患者のヘンリーさんのおかげのようです。ヘンリーさんは、短期記憶は出来るのに、長期記憶はなくなってしまいました。その後、練習により手続き記憶(鏡に映った自分の手と鉛筆だけを見ながら星を描く課題など)は出来るようになったので、長期記憶のぜんぶがダメになったのではなく、手続き記憶以外の長期記憶の機能が失われてしまったようです。
 MRI(磁気共鳴画像法)を使って海馬の研究をしているマグワイア教授は、次のように言っています。
「経験したことは脳の深部に吸収されていき、その後小さなかけらへと分割されて、大脳新皮質に分割保存されます。その記憶を呼び起こすには、海馬の助けがいります。そして記憶を呼び覚まそうとする時にだけ息を吹き返すのです。(中略)
 頭の中で経験を再現しようとする時、海馬は重要な役割を果たします。想像の中で再体験できるようにね」
 他の研究者たちも、記憶について次のように語っていました。
「脳は二つの相反する原則に基づいて機能しています。脳のさまざまな部位は、コンパクトに収納するためにできるだけ情報を同じような項目でまとめて分類しようとします。その一方で海馬は、出来事の異色な部分はとっておこうとするのです」
「記憶についての有力な説によれば、海馬は舞台監督のように記憶を構成する要素同士を組み合わせるという。」
 ……なるほど。海馬はこういう方法で、記憶を司っているんですね。
 また記憶には「注意」が重要なようで、トラウマになるような強い感情が起こる場合でも、注意が向けられない状況だと記憶は薄れるそうです。トラウマになるような映画を見せた後、半数にゲームのテトリスをやらせたという実験では、「トラウマが起きてから数時間テトリスをやると、意識に侵入してくる記憶の発生を抑えられた」のだとか。ゲームによって注意をそらされることで、トラウマになるものが脳に焼き付くのを防げるのです。……近親者が亡くなった後、家族はすぐに葬儀をしなければならず、悲しんでいる暇もないほど忙殺されますが……これはむしろ、トラウマを残さないためにすごく良いことなのかもしれないなーと思ってしまいました。
 ところで私は記憶力に自信がなくて、TVの推理ドラマで目撃者役の人が犯人について驚くほど詳しく語っているのを聞くと、いつも「よくこんなに覚えていられるなー」と驚くと同時に、絶対に目撃者になりたくない!(正しく記憶している自信がまったく持てなくて怖いから)と思っていたのですが……実は、記憶は「事実ではない」ことも多いようです。アメリカのTVで、強盗ドラマを見せた後、視聴者に犯人当てをさせたら、なんと正答率は、あてずっぽうと変わらなかったとか……なーんだ、そうだったんですか。
 幸いなことに、このような記憶の研究のおかげで、現在は「目撃者の証言」や「自白」の重要性は下がっているそうです。
 しかも「自分が体験したと思った出来事も、全てが事実とは限らない」のだとか。
「現代的なMRIスキャナーを使って研究者たちが発見したのは、私たちが何かを想像している時の脳の活動は、多少の差はあっても実際に体験している時の活動とよく似ていることだった。想像、記憶、虚偽記憶は、実際、脳内で同じような動きを見せる。」
 記憶は、私たちの想像力で容易に創造されてしまうんですね……。
 しかも「(fMRIでの実験で)研究者たちが発見したのは、過去を思い出す時も未来を想像する時も、反応する脳領域が重複していることだった。」そうです。
「人間は基本的にビジョンを持つことができ、ビジョンは記憶に基づく。記憶は想像の原料であり、想像は記憶を生き生きとさせるエネルギーだ。実際、記憶することとは、起こったことを想像することだ。多くの細部が現実と一致していることは確かだが、記憶が意識に上がってくる瞬間、それはすでに再構成され、さまざまな断片が集まって理屈のとおるイメージとストーリーに生まれ変わる。このように、実際にあったことの再構成から、実際には起こらなかったこと、またはまだ起こっていないことの完全な創作までは、それほど離れていない。(後略)」
 ……正確な記憶をずっと保持できる人なんて、ほとんどいないということのようです。なーんだ、私だけじゃないんだ。良かった(笑)。そして効率よく覚えるためには、「忘却」もまた大切なのだそうです。
「記憶」について、歴史や事例(症例)、実験などの研究結果をもとに、じっくり考察している本で、とても参考になりました。もちろん、ここで紹介した以外にも、興味深いエピソードをたくさん知ることが出来ます。みなさんも、ぜひ読んでみてください☆
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