『名画の暗号』2015/2/4
西岡 文彦 (著)

 ミケランジェロやフェルメールなど美術史を代表する画家たちがキャンバスに忍ばせたメッセージを、彼らの生涯や作品制作の背景とともに書き下ろしているエンタメ的読み応えたっぷりの美術鑑賞ガイドです。
『名画の暗号』というタイトルだったので、それぞれの名画をとりあげて、絵のモチーフに隠された意味を謎解きしていくという内容なのかと思いましたが……確かに、そういう部分も少しはありましたが、どちらかと言うと、『名画』そのものというよりは、画家自身の人生や考え方、当時の社会的背景などに重点が置かれていたように思います。
 すごく意外だったのが、「第五章 市民絵画フェルメールの謎」で紹介されていた「静物画」に関する話。
「(前略)ルネッサンス時代に静物画は存在していない。したがって、ダ・ヴィンチやミケランジェロが描いたとされる静物画は残されていない。
 絵画の黄金時代ともいえる十五、六世紀のルネッサンス期に静物画が存在しないのは、今日からすれば奇異とも思えるが、当時の絵画が担っていた機能からすれば、静物を画面に描く余地はなかったのである。
 当時の絵画は、写真や映画といった技術の存在しない社会の視覚メディアとして、教会と王権という天上と地上をそれぞれに支配する二大権の権威と栄光を、人々に知らしめることを目的に制作されていたからである。
 そうした社会的なコミュニケーション機能を担って、キリストや聖母や聖書の一場面や聖職者・権力者の姿を描く画面に、ちょうど芝居の小道具のように描き添えられ、場面や人物を特定するために用いられていたのが静物だったのである。
 ところが、宗教改革によってこれまで主役であったキリストや聖母が画面から退場し、代わって絵画の主題となったのが、小道具であったはずの静物や、大道具であったはずの室内や、書き割りであったはずの風景だったわけである。」
 そして一見「豊穣」を象徴しているように見える「果物」が、「空しさ」の象徴になっている場合もあるそうです。次のように書いてありました。
「果物は、静物画が全盛を迎える十七世紀オランダでは、人間の命のはかなさや地上の富の空しさを象徴するものとして、画面に必須の構成要素のひとつとなっていく。
 そうした空しさを指して「ヴァニタス(虚無)」と呼ばれた寓意の最も効果的な表現素材として、無数の静物画の画面を彩っている。」
 ……聖書では、リンゴは原罪の象徴だからでしょうか。
 この他、著名な画家の意外なエピソードも、たくさん知ることが出来ました。例えば、ゴッホが牧師の息子だったことは知っていましたが、株式仲買人だったゴーギャンが神学校を出ていたとは知りませんでした。あの有名なゴーギャンの名作絵画『われわれは何処から来たのか、われわれは何者か、われわれは何処へ行くのか』は、少年時に学んだ神学校での講義に由来していると考えられているそうです。
 またゴッホとゴーギャンの二人が、互いを思って描いた椅子の絵(ゴーギャン『肘掛け椅子のひまわり』、ゴッホ『ゴーギャンの椅子』)のエピソードは、とても印象的でした。
 なお嬉しいことに、作中で取り上げられている『名画』は、本文中でモノクロ写真で見ることが出来るだけでなく、冒頭のカラー写真でも見ることが出来ます。
 そして驚かされたのが、あの万能の天才ダ・ヴィンチは、「実は無学だった」と書かれていたこと!
「(前略)家業を継ぐことを期待されなかったレオナルドは、当時のエリートに必須の教養であったラテン語を学ぶ機会に恵まれぬまま終わっている。
 このことが彼の生涯に投げかけた影響は小さくなかった。(中略)
 学芸書も文芸書も主要な文献の大半はラテン語で書かれており、そうした古典の教養に照らして優雅で雄弁なラテン語を駆使する能力は、官職においても聖職においても必須のものとされていた。宮廷と教会という当時の社会の中枢をなす政治空間において、ラテン語の素養は、教養ではなく実務能力であり、これを欠いていることは、今日の国際社会において英語を知らないことにも等しかった。
 当時の初等教育の仕上げの段階がこのラテン語の初歩過程で、ダ・ヴィンチは十歳少し過ぎでこの課程に入って間もなく、就職訓練専門校へと転学させられている。」
 えええ! そうだったんですか……。父親はエリート(公証人)でしたが、レオナルドは婚外子だったので、高度な教育を受けさせてもらえかったそうです。それなのに、あの天才っぷりだったんですか……あらためて凄いと感心させられました……。
『名画』だけでなく、その背景を知ることが出来て、とても読み応えのある美術鑑賞ガイドでした。美術好きの方は、ぜひ読んでみてください。
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