『「空気」の研究』2018/12/4
山本 七平 (著)
日本において「空気」はある種の絶対権力を握っていることを深く考察した日本人論です。もちろん気体としての「空気」の化学的組成に関する研究ではなく、社会的雰囲気としての「空気」に関する研究です。私が読んだのは1983年発行の本でしたが、2019年の今でも、まだ通用する部分がかなりあるなーと反省させられる本でした(汗)。
名著として名高い本ではありますが、そもそも40年ぐらい前の本なので、「お爺さんのお小言」的なところもある話なんだろうと、高をくくって読み始めたのですが(汗、失礼)……「道徳教育」に関する最初のエピソードから度肝を抜かれました。ある教育雑誌記者の来訪を受けて、「道徳教育」について意見を聞かれた著者の山本さんは、記者に「どのような点からはじめたらよいのでしょう」と言われ、次の言葉を放つのです。
「それは簡単なことでしょう。まず、日本の道徳は差別の道徳である、という現実の説明から始めればよいと思います」
……な、な、なんですと?
読者の私も驚きましたが、もちろん記者さんも仰天して、「そ、そ、そんなこと、そんなことを言ったら大変なことになります」と言ったのだとか。自分の編集部には、そんな話を持ち出せる「空気がない」というのがその主張だったそうですが、2019年の私でも、同じ感想を抱いてしまうだろうなーと思ってしまいました(汗)。
そこから山本さんの「空気の研究」が始まるのです。
「この「空気」とは一体なんなのであろう。それは教育も議論もデータも、そしておそらく科学的解明も歯がたたない「何か」である。」
……まさしくその通り。2019年でも「空気よまない」人は嫌がられる傾向にあります。日本人として「場の空気を読む」ことは、学校でも職場でも地域社会でも、さらには家庭ですら、コミュニケーション技術として最も欠かせない技能の一つであると言えるでしょう。
「それ(空気)は非常に強固でほぼ絶対的な支配力を持つ「判断の基準」であり、それに抵抗する者を異端として、「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力をもつ超能力であることは明らかである。」
そしてこの「空気」をうまく醸成することで、権力者などを含めたわれわれ日本人は世論を誘導してきたようです。
うーん、そうか……と思いながら読んでいたら、次のような記述に出会い、なんだかホッとさせられました。
「だが、われわれの祖先が、この危険な「空気の支配」に全く無抵抗だったわけではない。少なくとも明治時代までは「水を差す」という方法を、民族の知恵として、われわれは知っていた。」
なるほど、じゃあ私たちも「水を差す」というやり方で「空気」を変えてやればいいのか、と思ったのですが、問題はそんな簡単なものではないようです。山本さんは「したがって「空気の研究」のほかに「水の研究」も必要なわけで……」と語りだし、考察は次の「水の研究」へと続くのでした(笑)。
この「水の研究」もまた興味深い記述がいっぱい。次のような深い日本人論で溢れていました。
「「状況に対する自分の対応は正しかった」従ってその対応の結果自動的に生じた自分の行為は正しかった。それを正しくないというなら、その責任は「自分が正しく対応しなければならなかった」苛烈な状況を生み出した者にあるのだから、責任を追及されるべきはその者であって、自分ではない、という論理である。」
などというような、ハッとさせられる文章にたくさん出会います(あー、困った状況になったときに、私もこんな風に思うこともあったなー……良くないことだけど……)。
が……肝心のこの「水」のほうは、実は「空気」と複雑に絡み合っているようなのでした。
「だがここでわれわれは、非常に複雑な相互関係に陥らざるを得ない。「空気」を排除するため、現実という名の「水」を差す。従ってこの現実である「水」は、その通常性として作用しつつ、今まで記した「一絶対者・オール3」的状態をいつしか現出してしまう。ちょうど「雨」にたたかれていると一切が腐食で崩れて平坦化していくような状況である。」
「われわれは今でも「水を差す自由」を確保しておかないと大変なことになる、という意識をもっており、この意識は組織内でも組織外でも働き、同時にこの自由さえ確保しておけば大丈夫という意識も生んだ。だがしかし、この「水」とはいわば「現実」であり、現実とはわれわれが生きている「通常性」であり、この通常性がまた「空気」醸成の基であることを忘れていたわけである。」
……うーん「水を差す」だけでは、「空気をよむ」慣習を変えることは出来ないということなのでしょうか……。
最後の「あとがき」には次のように書いてありました。
「結局、民主主義の名の下に「消した」ものが、一応は消えてみえても、実態は目に見えぬ空気と透明の水に化してわれわれを拘束している。いかにしてその呪縛を解き、そこから脱却するか。それはそれを再把握すること。それだけが、それからの脱却の道である。人は、何かを把握したとき、今まで自己を拘束していたものを逆に自分で拘束し得て、すでに別の位置へと一歩進んでいるのである。人が「空気」を本当に把握し得たとき、その人は空気の拘束から脱却している。人間の進歩は常にこのように遅々たる一歩の積み重ねであり、それ以外に進歩はあり得ない。」
……「空気」と「水」の研究を通して、日本的根本主義や日本人の本質を深く考察している本でした。個人的には「空気」を読んで、長いものは巻かれがちなタイプです(汗)が、この本を読んで、誰かが意図的に「空気」を作り出して誘導するということは、昔からよく行われてきたことなんだなーと痛感させられました。2019年の現在は、一見、科学や論理的思考が優勢になっているような気もしますが、その一方で「フェイクニュース」を作りやすい環境も整っていますし、SNSによるデマ拡散のスピードも上がっています。周囲に協調していくために「空気」を読むことは必要だけど、必要な時には、せめて「(現実という)水」も差せるよう、常日頃からいろんな本を読むなどして、幅広く「より正しい情報」を手に入れるように心がけようと考えさせられました。
とても古い本ですが、いまだに多くの論者に引用、紹介される名著です。昔っぽい文体で、ちょっと読みにくい感じでもありましたが(汗)、上質なユーモアも楽しめました。わたしたち日本人の本質を再確認(反省)するために、ぜひ読んでみてください☆
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