『コード・ブレーカー 上 生命科学革命と人類の未来』2022/11/8
ウォルター・アイザックソン (著), 西村 美佐子 (翻訳), 野中 香方子 (翻訳)
『コード・ブレーカー 下 生命科学革命と人類の未来』2022/11/8
ウォルター・アイザックソン (著), 西村 美佐子 (翻訳), & 1 その他
人類の未来を左右するゲノム編集技術クリスパーは、いかにして誕生したか……ゲノム編集技術クリスパー・キャス9を開発してノーベル賞を受賞した科学者ジェニファー・ダウドナさんを主人公に、「生命科学の革命」の全貌を描き尽くしたノンフィクションです。
「序章」には、次のように書いてありました。
「(前略)細菌は自らのDNAに、クリスパーと呼ばれる反復クラスター(反復配列が集まった領域)を作る。その領域は、侵入してきたウイルスのDNAを記憶し、破壊する。つまり、クリスパーは、細菌がウイルスと戦うために進化させた免疫システムなのだ。」
このクリスパーは、ダウドナさんたち多数の科学者によって、ゲノム編集ツールへとつながっていきます。そして今回のコロナ対策にも多大の貢献をしてくれるのです。
「クリスパー」などの生命科学に関わる人々がどのように育ち、学び、研究を進めてきたか、さらに生命科学の研究最前線まで、分かりやすく、いきいきと描かれていて、かなり難しい内容も含まれているのに、どんどん読み進めることができました。
酵母や酵素、DNAやRNA、リボザイムなどについての簡単な説明も、必要な場面にきちんと書いてあるので、とても勉強になります。例えば「第11章 才能あふれる同志が集う」には、「ここでざっとおさらいしよう。」として、次のように書いてありました。
「酵素はタンパク質の一種で、主な機能は、細菌からヒトまで、さまざまな生物の細胞内で触媒となって化学反応を引き起こすことだ。消化器系におけるデンプンやタンパク質の分解、筋肉の収縮、細胞間の信号伝達、代謝のコントロール、そしてDNAとRNAの切断およびスプライシングなど、酵素が触媒する生化学反応は5000以上ある。
2008年までに科学者たちは、細菌DNAのクリスパー配列に隣接する遺伝子が生成する酵素をいくつか発見した。細菌のクリスパー・システムは、これらのクリスパー関連酵素によって、新たに攻撃してきたウイルスの記憶を、カット・アンド・ペーストしている。また、そのシステムは、クリスパーRNAと呼ばれる短いRNA断片も生成し、そのRNA断片がハサミのような酵素を危険なウイルスへと導き、その遺伝物質を切断させる。」
……小さな細菌は、凄い免疫システムを作り上げてきたんですね!
そしてこの免疫システムを活用して、ゲノム編集、さらには各種ウイルスの検出・破壊を行っていこうというのがダウドナさんたちの研究なのです。
でも多くの優秀な研究者たちがしのぎを削る生命科学の研究は競争も激しく、けっこうなストレスもありそうでした。「訳者あとがき」には、このことが次のように簡単にまとめられていました。
「科学者には清廉潔白というイメージがあるが、とんでもない。弟子が指導教官を欺いたり、論文査読や特許の審査を早めるための裏技を使ったり、自分の陣営の若手をフォローするために敵陣営を手ひどく非難する小論を欠いたり、なんでもありだ。ダウドナも泣き寝入りはぜず、健全な競争心でもって対抗する。」
ちなみにこの「訳者あとがき」では、クリスパー・システムのカギになる三要素の簡単な説明や、本書の概略などがまとめられているので、本書を読むべきか迷っている方や、時間がない方は、これを先に読むと、とても参考になると思います。
さて、本書の主人公はダウドナさんなので、彼女の最も強力な対抗者となっている科学者のフェン・チャンさんについては、ちょっと小狡い悪賢い人というイメージがありましたが、実は彼もちゃんとした倫理観のある非常に優秀な人のようです。「第52章 コロナウイルス検査」によると、チャンさんは新型コロナウイルスに対応できる検査方法を短時間で開発し、それを無料公開してくれたそうです。チャンさんやダウドナさんたちの努力もあって、今回、驚くほど速くワクチン開発が進められたということが、本書で詳しく紹介されていました。
コロナウイルス感染症を倒すために、科学者たちは、知的所有権にこだわらずに、自らの発見をウイルスと戦う人間が誰でも利用できるようにすることを宣言し、情報をリアルタイムで自由に共有するために、無料で公開され最小限の査読プロセスしか求められないプレプリント・サーバーに論文を投稿したそうです。次のように書いてありました。
「(前略)コロナウイルスと戦うには、分野を超えた協力が必要とされる。その意味では、クリスパー開発の取り組みに似ている。クリスパー開発では、微生物ハンター、遺伝学者、構造生物学者、生化学者、コンピュータおたくが連携した。」
……本当にありがたい、素晴らしいことですね!
また驚いたことに、クリスパーは、ゲノム編集や治療に用いるだけでなく、生物兵器への対抗にも使えるそうです。
「第34章 生物兵器│米国防総省も参戦」には、クリスパーが生物兵器にも使われる懸念を抱いたダウドナさんが、米国防総省が資金提供する、クリスパーの悪用を防ぐ方法を検討する取り組みに参加したことが紹介されていました。
実はそれに先立って、細菌のクリスパーを無効化するウイルス(抗クリスパー)が発見されていたそうです。次のように書いてありました。
「抗クリスパーは、医療での応用でクリスパー編集に時間制限を加える場合に役立ち、テロリストや邪悪な敵が作ったゲノム編集システムへの対抗手段にもなる。また、クリスパーによる遺伝子ドライブ(蚊などの繁殖の速い個体群で急速に遺伝子を変化させる)を止めるためにも利用できるだろう。」
……「クリスパー」だけでなく、「抗クリスパー」まであるなんて! ウイルスや細菌って、本当に凄い能力があるんですね……。
そしてゲノム編集といったら、やはり「人間を設計する」ことへの議論が避けられません。なにしろゲノム編集が最も効果を発揮するのは、生殖細胞へ導入される場合なのですから。
科学者たちは現時点ではまだ「生殖細胞系列のゲノム編集を許可するにはリスクが大きすぎる」として自重していますが、「将来には容認される可能性がある」ことも認めています。ご存じの方も多いと思いますが、すでにある研究者が、倫理違反を犯して2018年に最初のクリスパー・ベビーを誕生させてしまっているのです。
生殖細胞系列でのゲノム編集の問題を扱うため2つの国際委員会が設立され、検討が続けられているようです。
また、遺伝子病などの疾患を抱える人への治療にクリスパーを使う場合のことも考えなければなりません。遺伝病を持つ人が本人の治療だけでなく、自分の子どもに遺伝病を引き継がせたくないと思うのは、当然のことでもありますが……実は「異常の修正と機能の強化との境界は曖昧だ」からです。
この問題について、「第42章 誰が決めるべきか?」には、パーソナル・コンピュータとインターネットにも当初「中央集権国家による抑圧」という懸念があったとして、次のようなことが書いてありました。
「(前略)コンピュータは、中央集権国家による抑圧の道具にはならなかった。それどころか、パーソナル・コンピュータと、インターネットの分散型の性質の組み合わせは個人により多くの力をもたらし、表現の自由とメディアの民数化が、急速に過剰なほど進んだ。(中略)
遺伝子テクノロジーについても、同じことが言えそうだ。」
……なるほど。確かに、そうですね……。
そして次のようにも書いてありました。
「ゲノム編集に関して、個人の選択と自由市場に制限を設けようとする理由の一つは、ゲノム編集が不平等を助長し、さらには種の中に永久に刻み込む可能性があることだ。」
「親が子どものために最高の遺伝子を買うことを許可すると、不平等は飛躍的に進むだろう。」
……子どもに最高の形質を持たせたいと願うのは、ごく自然なことのようにも感じます。でも……そうなると、健康で賢くて誠実で努力家のスポーツ万能スマート美男美女ばかりが生まれてくることになるのでしょうか? その場合、親の形質はどの程度引き継がれることになるのでしょうか?……さらに言うと、その人が親である必要はどこにあるのかとか、その子はどの程度「一族の子孫」なのだろうかとか、いろんな不穏な疑問もわいてきてしまいます。
そして同じような美男美女ばかりになって、社会から多様性がどんどん失われていくのかもしれない……とも想像してしまいました。
でも待てよ……多様性が有利なのは、環境激変に即応できる生物が必要だからで……遺伝子改変で進化スピードを劇的に上げられるなら、そもそも多様性すら不要なのかもしれない……などと妄想はどんどん暴走していくのでした……。
なお著者のアイザックソンさんは、「エピローグ」で、「ゲノム編集で不完全と思える部分を排除できるようになったのは、正しいことなのだろうか? わたしたちの多様性は失われるのだろうか?」と懸念しながらも、この問題に安易に答えをだそうとはせず、読者が自分たちで考えるよう促しています。
『コード・ブレーカー』……まさに「生命科学革命と人類の未来」を考える上で、とても参考(勉強)になる素晴らしいノンフィクションでした。面白くて読み応えのある本なので、みなさんもぜひ読んでみてください。お勧めです☆
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なお社会や科学、IT関連の本は変化のスピードが速いので、購入する場合は、対象の本が最新版であることを確認してください。
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