『教養脳 自分を鍛える最強の10冊 (文春新書 1315)』2021/5/20
福田 和也 (著)

 文芸評論家の福田さんが、自分を鍛える最強の10冊を教えてくれる本で、その10冊は以下の通りです。
『万葉集』
『わが闘争』アドルフ・ヒトラー
『論語』
『ナポレオン言行録』
『移動祝祭日』アーネスト・ヘミングウェイ
『赤と黒』スタンダール
『神曲』ダンテ・アリギエーリ
『本居宣長』小林秀雄
『文明論之概略』福澤諭吉
『存在と時間』マルティン・ハイデガー
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 ……読書好きのはずの私ですが、読んだことがあるのは半数程度。しかもちゃんと理解できてはいない本が多い……という反省もあって、この本(『教養脳』)を読んでみることに。
 さすがは文芸評論家の方だけあって、これら名著の感想だけではなく、著者の人物紹介も詳しく書いてありました……というか、どちらかと言うと、これらの名著の内容に関することよりも、むしろ著者に関する情報の方が多かったと思います。……こういう本の紹介の仕方があるんだ、とちょっと意外に感じました。というのも私自身は、読書の際に、あまり著者の履歴を気にしない(調べない)からです。本の「解説」に著者の履歴が書いてある時に、初めて、ふーん、そういう人だったんだ、と思う程度で……。
 でも考えてみると福田さんは文芸評論家の方なので、こういう「解説」を書く側の立場なんですよね。だから本を読む時には、著者の履歴などを調べることが習慣になっているのかもしれません。
 ということで、この本は、これらの本の内容紹介ではなく、著者がこの本を書いたときの背景など、これらの本を理解するための「教養」を得ることが出来る本だったように感じました。そういう意味で、とても参考になりました。
 へえ! と意外に感じたのは、『万葉集』に書いてあった、近代以前の西洋の「教養」への考え方。日本の『万葉集』は、奈良時代末期から平安時代初期に書かれたものなのに、現代人にもなんとなく理解できる内容ですが、これは西洋の古典とはまったく違うそうです。次のように書いてありました。
「ヨーロッパで古典といえば、古代ギリシア語とラテン語の文学をいう。この二つの言語は現代の言語とは隔絶されていて、そのままでは到底読むことができないし、意味をくみ取ることもできない。言語の骨格からして違っているのだ。(中略)
 重要視されてきたのは、古代の遠さである。いかに古代の生活が、近代のヨーロッパ諸国の現実から遠く、無縁であるかということだ。
 つまり、今の自分たちの生活や利害、関心と全く関係のない時代の人々の言葉を学び、その発想や言動を理解しようとすること。そこにこそ、古典教育の意味があるとされた。自分と隔絶した他者を理解しようと徹底的に努力することにこそ、人間の人間としての力、つまりは利害、欲望、本能を超えた人間性の力があると、ヨーロッパ人たちは考えたのだ。
 この、自分とまったく違う時代、文明のなかにいる他者を理解する能力を、ドイツ人は「教養」と呼んだ。」
「教養というのは、知識とは経験の豊富さを人に誇ったり、それを何か実用的な目的で使うために身につけるものではない。」
「はるか昔の、言葉も思考のあり方も、生活や人生観も違う他者の中に現在の自分と通底する人間を見出すこと、そのことを通じて自己の人間性を、その場、その場に限定された関心の中に生きるものから、それを超えた、広がりのある存在として形成していくこと。こうした教養教育の中心として、近代ヨーロッパでは、古典教育が重視され続けてきた。
 しかしながら十九世紀の後半ともなると、実用的な方向へと教育は傾いていった。」
 ……うーん、そういう考え方もあるかもしれませんが、西洋にはごく近くに「中東」「アフリカ」があって、「自分と違う考え方の人間」が実際に同時代的に存在していましたよね。そういう人々の考え方を理解しようとするほうが、よっぽど現実的ではないかと思ってしまいます(もしかしたら「中東」「アフリカ」とは「利害関係がある」から「教養的理解」の対象にならないのかもしれませんが……)。そういう意味では、十九世紀後半からは実用的な方向へ軌道修正して、良かったのではないでしょうか。
 とはいうものの、真の「教養」は「実用的な目的で身につけるものではない」という考え方にも、なにか非常に尊いものを感じます。「人間性」の形成には、それもまた大事なことなのでしょう。
 さて、この本には、この他にも、2016年1月に著作権が消滅して誰でも自由に出版できるようになった『わが闘争』がこれまであまり出版されてこなかったのは、「1945年から2015年までの70年間、バイエルン州はヒトラーの著作権を守っていたというよりは、『わが闘争』が再販されないよう監視していたのである。」という意外な話など、さまざまな情報が書いてありました。
 そして日本人の『論語』の読み方に関する次のような解説をみて、この日本人の考え方の特徴は私自身にも通じるものがあるな、とも考えさせられました。日本人は教養として『論語』を大事に読んできましたが、そのまま取り入れてきたわけではないそうです。
「ここに日本的な儒教の特徴があり、またある意味で日本人の考え方の特徴の一つが現れている。
 それは人間の背丈を超えて君臨しようとする正義や理念を、自分たちの生きている感情や暮らしに引きずり降ろしていくということである。」
 ……書いてある内容をそのまま取り入れるだけが教養としての読書ではなく、学んだことのうち「重要」で「価値がある」と感じるものを取捨選択し、自らの血肉として活かしていこうと努力することこそが、真の教養に通じるのではないでしょうか。
 名著の背景を紹介してくれるとともに、『教養脳』の鍛え方を教えて(考えさせて)くれる本でした。読書好きの方はもちろん、「教養」を高めるために古典的名著を読みたいと考えている方も、ぜひ読んでみてください。
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