『ウェブスター辞書あるいは英語をめぐる冒険』2020/4/13
コーリー・スタンパー (著), 鴻巣 友季子 (翻訳), 竹内 要江 (翻訳),

 アメリカの伝統ある辞書出版社メリアム・ウェブスター社編纂者のスタンパーさんが、辞書編纂を通じて「英語とは何か」にさまざまな角度から光を当てるユーモア・エッセイ集です。
「bitch」は侮蔑語か? 「its」と「it’s」を間違える人は無教養? 「OMG」は英語の退化? 「nude」は「白人の肌の色」? 「marriage」できるのは異性だけ?
 こんな疑問の一つ一つに、ものすごく時間と手間をかけて丁寧に向き合い格闘する辞書編纂担当者の世界が生き生きと描かれています。すごく大変な世界だなあと痛感させられましたが、スタンパーさんの卓越したユーモア・センスのおかげで楽しく読み進めることができました。スタンパーさんはこんな人なのだとか。
「わたしはたいして文学的素養のない、ブルーカラー家庭に長子として生まれた。本が大好きな子どもだった。聖人伝『わたし』によると、文字を読みはじめたのは3歳。車で移動すれば道路標識をぺちゃくちゃと読み上げつづけ、冷蔵庫からドレッシングのボトルを引っ張り出してきてはその香ばしい言葉を舌の上で転がすなどしていたらしい。ぶるーちーじー、あい・たり・あん、さうすず・あんど・あいす・らんど。両親はおませな娘に目をひそめはしたが、だからどうなるとも思っていなかった。
 与えられた絵本はむさぼりつくし、カタログは読破してこっそり貯めこみ、家で購読していた2種類の月刊誌(『ナショナル・ジオグラフィック』と『リーダーズ・ダイジェスト』)は何度も何度も手にとって、しまいにはボロ紙と化すまでに読みこんで全滅させた。(後略)」
 ……私も子どもの頃から読書好きでしたが……ここまではいきませんでした。さすが辞書編纂者になるような方はすごいですね……。ちなみに、これは、メリアム・ウェブスター社の就職試験の面接で「なぜ辞書編集に興味をお持ちなのですか」と問われた時の回答の冒頭部分です(笑)。
 さて「Hrafnkell 辞書編纂者の偏愛」には、『英語辞典』のサミュエル・ジョンソンの次の序文が紹介されています。
「人生の卑しい営みに精を出す者には、次のような運命が待ち受けている。きっとよいものができるという見通しに心が動かされるよりも、邪悪な結果を恐れる気持ちが大きくなって、それに支配される。賞賛など望むべくもなく、非難の嵐にさらされる。失敗が露見して面目を失ったり、なにか見落としたことで罰せられたりする。成功したとしても賞賛は得られず、その勤勉さは報われない。そんな不幸な輩が辞書の執筆者なのだ。」
 ……まさしく。この本で描かれているスタンパーさんのお仕事そのものですね……(涙)。
 辞書編纂者は日々、「ennui(憂鬱)」、「love(愛)」、「chairs(椅子)」という言葉を説明するのに、ぴったりの表現を手探りでつかもうと知力をしぼり、雑誌や書籍、ネットなどさまざまの資料に目を通しているようです。スタンパーさんも何かを調べるために、社内のたくさんのピンクや黄色、白、青色のインデックスカード(英語の用法、参考文献、下書きなどを整理してメモしたもの)を何度もひっくり返しています。「編纂者はしまいには社内のあちこちに散らばっている編集用図書室をかけずりまわって、デジタル化なんてまったくされていない資料にもあたることになる。」とありましたが、このカードなどの資料は文化的価値がものすごく高そうなので、メリアム・ウェブスター社が火事にならないことを祈ります(デジタル化は無理でしょうが、せめてスキャンなどの画像保存をしておいたほうがいいような気がします。)
 日本語の辞書編纂も大変そうですが、英語はそれ以上に大変なのかもしれません。なぜなら英語の語源となっているのは、ラテン語をはじめヨーロッパ各地の言語も多く、発音も必ずしも系統だっていないからです。「It’s 繁茂する英語」には、次のような記述がありました。
「文法学者や衒学者などが言うところの「標準英語」とは、その活用のほとんどが柔軟性に欠けた架空のプラトン的理想に基づいた一つの方言にすぎない。」
「英語とは「守るべき砦」だと思われがちだが、それよりも「子ども」だと考えたほうが、比喩としては的を射ている。親はわが子に愛情を注いで育てるが、ひとたび運動機能が備わると、その子は親が近寄ってほしくない場所にばかり行こうとする。(中略)だが、どうしたって英語はわたしたちの配下には入らない。英語は、だからこそ繁茂するのである。」
 ……日本語もそうですが、英語も時代の流れとともに変化していくもので、「辞書」はその時代に最も通用している言葉の意味を収録しなければ「コミュニケーション・ツール」としての意味を果たせないんですよね。だから英語は「守るべき砦」ではなく、「子ども」という比喩は、本当に適切だなと感心させられました。
 また「Posh 語源をめぐる妄言」には、次のような記述が。
「語源妄信ほど最悪の衒学はない。無意味な個人的見解を大げさに言い立てて、歴史の本質を保護すべしと憂いてみせる。言語は変化する。そこに欠けているのは、言語は変化するということこそが歴史の本質だという事実である。変化をしない言語は死語だ。」
 まったく同感です。「辞書」には時々「死語の刈り込み」をやって欲しいと思います。もうあまり使われなくなった単語は、「標準辞書」に掲載しないとか。その一方で、広範囲(場所やジャンル、時代も)を網羅する「総合辞書」には、「刈り込まれてしまった言葉」も記録として残して欲しいとも思います。要するに辞書には、「みんなが使いやすい標準(簡易)辞書」と、「言語の記録として残したい総合(完全)辞書」の二種類が欲しいのです。
 例えば日本語の場合、「ウサギの数え方の単位には、羽を使う」というような話は「標準辞書」には不要ではないでしょうか。歴史的経緯はともかく、「羽」で数えるのは鳥、動物の場合は「匹」のように、分かりやすい単位だけを掲載すべきだと思います。辞書には、「言葉の文化」を牽引する力があるのですから。外国語やコンピュータなどの技術用語を使う機会がどんどん増えているのだから、不要な言葉を刈り込んでいかないと、覚えなければいえない言葉が膨大になって、生きるのが大変になってしまいます……。
 それにしても……子どもの頃、本を読んでいて分からない言葉があると、いつも辞書をめくって確かめていましたが、それを作っている人のことを考えたことはありませんでした。ましてや間違っていることがあるかもしれない、なんてことも……。ほぼ「神」のように感じていたのです。この本の「エピローグ」には次のような記述がありました。
「ときどきしゃくに障るのは」スティーヴがいう。「辞書づくりや、ある特定の項目を書くのにどれだけ考え抜いたか、その点が正当に評価されていないってことだよ。辞書の背後にあるあらゆることは目に見えない。だいたいが、みんな辞書が当たり前のものだと思っているみたいだ。だれかが書いたものだと思っていないし、そこにあるすべてのためにあらゆる決断を下さなければならなかったことにも気づかない。間違いには気づくが、ほとんどの場合、辞書の優れた点には気づかない。まあ、辞書のすばらしさってのは、間違いがないということに尽きるからね」
 ……まさしく、その通りで申し訳ない(汗)。でも……それこそが、「正しい辞書の在り方」ではないでしょうか。
 そしてスティーヴさんは、最後に次のように言うのです。
「これがぼくの仕事さ」スティーヴはさりげなく言う。「これが世界に対するぼくのささやかな貢献なんだ」英語は外の世界に向かって跳ねだし、わたしたち「しがない勤労人」は、そのあとを追いつづける。
 ……辞書づくりの大変さを痛感させられるエッセイ集でした。辞書編纂に携わる方々が、目を見開いて追い続けてくれるので、私たちは「言葉の意味」に困らないのだということに深く感謝したいと思います。
 言語のさまざまな性質(やっかいさ)を楽しく知ることができて、とても勉強になるとともに、洗練された知的ユーモアを堪能できる本でした。ぜひ読んでみてください。とりわけ英文学などを専攻している方には、スタンパーさんの英語的な苦労話や語学ユーモアがとても参考になると思います。お勧めです☆
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