『バイオハッキング―テクノロジーで知覚を拡張する』2018/11/8
カーラ・プラトーニ (著), 田沢恭子 (翻訳)

 テクノロジーで知覚を拡張していきつつある「知覚の未来」とは? 脳をハッキングして心の声を再現しようとする研究者や、AR装置で現実を拡張しようとする起業家、さらには自らの身体に装置を埋め込んで新たな感覚を得ようとするバイオハッカーなど、多彩な面々が挑む「知覚科学」の最前線を紹介してくれる本で、内容は次の通りです。
第1部 五感
1 味覚 ……第六の味を見つけられるか?
2 嗅覚 ……においが呼び覚ます記憶
3 視覚 ……人工網膜がもたらす新しい視覚
4 聴覚 ……心の声を機械で再現できるか?
5 触覚 ……手術支援ロボットと触覚
第2部 メタ感覚的知覚
6 時間 ……一万年時計と原子時計
7 痛み ……体の痛みと心の痛みの関係
8 情動 ……文化が感情に影響を及ぼす
第3部 知覚のハッキング
9 仮想現実 ……VRによる新たな知覚体験
10 拡張現実 ……AR装置による知覚の拡張
11 新しい感覚 ……バイオハッカーの身体改造
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 テクノロジーで身体や脳を「バイオハッキング」することで「世界の感じ方」はどう変わるのか……第1部「五感に関する最新研究」から、第3部「仮想現実(VR)や拡張現実装置の開発、バイオハッカーによる未知の感覚の追求」まで、知覚の未来に向けた最新研究を取材・紹介しています。
 まず登場するのは「味覚」。味わいの基本の4つ「塩味」「甘味」「酸味」「苦味」に、日本の研究者によって5つ目の「うま味」が追加されたことで、科学者たちは第6の味覚探しを始めたそうです。候補となっているのは「脂肪味」や「コク味」など。でも第6の味覚の探求は、実は単なる技術的問題ではなく、言葉の問題でもあるのだとか。
「言葉の問題とはつまり、言い表す言葉がなく、それゆえ確立された概念も存在しない場合、どうしたら知覚できるのかということだ」
 ……確かに……。微妙な味の違いが分かったとしても、それをどう表現していいのかが分からないとしたら、そもそも「微妙な味の違いが本当に分かったのか」自体を自分自身でも疑ってしまうかも。実はこの問題は、味覚だけでなく他の感覚にもあるようです。「感覚」の研究は「文化」の影響を避けられないので、そういう意味でも難しいのですね……。
 そして、すごく興味深かったのが、「嗅覚」と「記憶」の関係。実はこの二つには、密接な関係があるのだとか。
「嗅覚は原始的な感覚で、危険な化学物質や望ましい化学物質に遭遇したときに知らせてくれる通報システムとして働く。脳の進化の歴史においてごく初期に嗅覚が発達したおかげで、記憶や学習や情動の中枢は嗅覚を足場として発達し、嗅覚と密接に結びついている。それゆえ嗅覚は、現在の感覚と過去の経験を結びつける方法となる。」
 なるほど。プルーストの『失われた時を求めて』の有名なエピソード、「マドレーヌを菩提樹のお茶に浸すと、コンプレに住むおばの家を訪れた幼少期の旅の記憶が押し寄せてくる」というのには、こんな現実的な裏付けがあったんですね!
 記憶が失われていくアルツハイマー病と、嗅覚の関係についての研究も進んでいるそうです。アルツハイマー病の患者さんは、嗅覚がまず失われていくことが多いのだとか。その一方で、「におい」から過去の記憶を呼び覚まされることもあるようなので、「嗅覚」がアルツハイマー病の早期発見や、リハビリに役に立つ可能性もあるようです。
 この他にも視覚の「人工網膜」とか、興味深い話がいっぱいありました。
 そして一番SFっぽくて面白かったのは、やっぱり「第3部 知覚のハッキング」。
 戦地から帰還した後、PTSDに悩まされるようになった兵士への仮想現実療法(安全で有効だという結果があるそうです)や、人間でないアバターになる仮想現実実験(牛になって最後には食肉処理場のトラックを待つ!)などでは、仮想現実が人間の精神に及ぼす影響の強さを思い知らされました。
 また「ウェアラブルなAR装置」の「iオプティック」は、メタリックなコンタクトレンズと眼鏡のセット。暗闇との明暗差の調節をしたり、暗視能力を得たり、ズームイン、ズームアウトできたり、組み立て作業をしながら製造指示を受けたり(見ているものに、作業指示が重ねて映される)出来るようになる可能性があるのだとか……うわー、すごく未来的ですね!
 ……でも、人間とテクノロジーの融合、特に「アイカメラ」的なものでは、プライバシー問題が避けられないようです。私自身としても、たとえ医療機器だとしても「アイカメラ」を付けている人に勝手に自分の姿を撮影されて、それが「保存」されたり「流通」されたりしてしまうのは気持ちのいいものではありません。
 逆に「アイカメラ」をつけている方の人の側も、「現実と違うものが目に映されて」意図的に行動を操作される恐れがあるようです。……「テクノロジーで身体を拡張する」というのは、未来的でカッコいいような気がしていましたが、実はいろんな意味で、深刻な危険性を孕んでいるのだなと、なんだか背筋が冷たくなりました。
 人間は、洋服や靴、眼鏡・補聴器・義歯、美容整形、義肢・医療器具・薬、ポケットに入れたスマホなどの道具で、もうずーーっと昔から「身体の機能を拡張」してきたとも言えますが、個人的には、その延長上で許せるのはスマートウォッチ程度のもの(身体的データを取得はするが、体内に埋め込まないもの)で留めたいような気がします。
 この本の中には、埋め込みチップ(RFID)とか、磁石を皮膚の下に埋め込んでいる人も出てきますが、磁石はともかく、埋め込みチップ(RFID)はプライバシーの侵害が心配です。
 もしかして遠い将来(近い将来?)、光ファイバーをつないで、人間の脳の中枢や知覚のニューロンを刺激することが出来るようになったとしたら、「仮想現実」と「現実」の境界はなくなってしまうのでしょう。その未来は、ユートピアなのでしょうか? それともディストピアなのでしょうか? 個人的には「ディストピア」を強く懸念してしまいますが、周囲のほとんどの人が「光ファイバー」で脳機能や身体機能を強化した超人になってくのだとしたら……やっぱり、私も「光ファイバー」人間になることを選択してしまうんだろうなー……うーん……(汗)。
 とても勉強になる上に、いろんなことを考えさせられる本でした。ぜひ読んでみてください。
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 なお社会や科学、IT関連の本は変化のスピードが速いので、購入する場合は、対象の本が最新版であることを確認してください。
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