『さらにわかった! 縄文人の植物利用 (歴博フォーラム)』2017/3/15
工藤 雄一郎 (編集)、国立歴史民俗博物館 (編集)
縄文時代の鳥浜貝塚・東名遺跡などの低湿地遺跡で見つかった植物質遺物、とくに多量に出土した「編みかご」の研究と最新の自然科学分析から、高度な植物利用の知識と技術の起源を解き明かしてくれる本で、『ここまでわかった! 縄文人の植物利用』の続編です。
「縄文時代は日本列島で最古の土器が出現する約1万6000年前から、水稲耕作が始まり弥生時代が開始する約2900年前頃(東日本では2400年前頃)まで、約1万3000年もの時間幅をもっており、その文化の内容はじつは多様です。」だそうで、環境史の視点から見ても、「縄文時代前半期の中でも最も古い時代である縄文時代草創期は、まだ地質学的には更新世(最終氷期)で、現在と同じ完新世(後氷期)が始まるのは縄文時代早期になってからです。(中略)縄文時代草創期は最終氷期の寒冷な時期から後氷期の温暖環境へと移り変わっていく、10万年に1回の気候大激変期だったのです。また、後氷期に入ってからもその前半は、環境的にまだまだ安定していなかった時期です。つまり、縄文時代前半期を考えるには、文化の変化と環境の変化の側面を正確に捉えていくことが必要不可欠なのです。」なのだとか。縄文時代って「気候大激変期」だったんですね!
そんな縄文時代の低湿地の遺跡・鳥浜貝塚からは、たくさんの植物利用の遺物が見つかっています。
まず「鋭角型の石斧柄」。鳥浜貝塚では全部で約150点出土していますが、その83%に相当する123点はユズリハ属だそうです。
「首都大学東京の山田昌久さんたちが実際に当時の石斧を復元して使用する実験をしたところ、石斧をはめる木の幹と、柄となる枝の角度が鋭角型の石斧に非常に好適であることがわかりました。」
……なるほど。ユズリハ属にはそんな利点があったんですか。加工のための道具が少なかった縄文時代は、「枝の角度」を巧みに利用していたんですね。
そして、この本のハイライトと言えるのが、縄文時代の「編みかご」。その出土状況からドングリを水漬けにして貯蔵するために使ったり、「蒸す」料理に使ったりしていたことが分かってきたようです(「土器の内側にかごが焦げついている状態の資料があります。これは、土器の内側にかごを設置して調理をした、つまり蒸し器だったのでしょう。」)。縄文時代に、すでに「煮る」「焼く」の他、「蒸す」という料理法があったんですね!
縄文時代の「編みかご」には丁寧に編まれていたものが多数あって、その編み方(編組技法)も、四つ目、石畳(市松)、ござ目、飛びござ目、網代、波形網代編み、連続桝網代編み、六つ目、もじり(縄目)、ヨコ添え巻き付け、などの多彩な技法が使われていたようです。「かご」についても復元実験を行っていて、「縄文時代のかごづくりの技術が復元実験によってわかってきました。また、底から立ち上げるときにタテ材を割いて本数を増やしていることや、括れのある器形など、実際に立体物をつくると、遺物の実測図や出土資料の観察からだけではわからなかったことも見えてきました。」ということが、豊富な写真やイラスト付きで詳しく説明されます。
複雑な道具がなかったはずの縄文時代ですが、かごなどの遺物はとてもきれいに編まれているだけでなく、模様まで編み込まれていて美意識も高かったように感じました。これらのかごは生活必需品で、日々たくさん編んでいたと思われるので、手わざで編む技術は、もしかしたら現代以上に高かったのかもしれません。
さらに「鳥塚貝塚の縄の7割もがリョウメンシダ製ということになります。」ということで、縄には「今ではまったく使われることのない身近なシダ植物が縄文人に大いに利用されていた」ようですが、このシダ類は、もしかしたら使いたくて使っていたのではないのかも? と感じてしまいました。本来なら、もっと編みやすい蔓などの植物材料を使いたかったのかもしれませんが、蔓などの材料は、より複雑な編み物(かごや衣類など)に利用しなければならなかったので、縄のような単純な編み物には、シダのような雑な素材の植物を使わざるを得なかったのかもしれません。いずれにせよ、縄文人は適材適所で上手に植物を利用していたのだな、と感心させられました。
縄文人の暮らしがリアルに想像できるような、とても興味深い歴史の本でした。考古学や歴史に興味のある方はぜひ読んでみてください。