『ジーキル博士とハイド氏』
ロバート・ルイス スティーヴンスン (著), & 2 その他
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街中で少女を踏みつけても平然としている凶悪な男ハイド。それなのに、なぜか、高潔な紳士として名高いジーキル博士は、自分の死後、全財産をハイドに譲るという遺言書を、親友の弁護士のアタスンに託します。両極端に見えるこの二人に、どんな関係があるのでしょうか? 好奇心を抱いたアタスンは調査を開始しますが、ついにハイドによる殺人事件が引き起こされて……という内容の超有名なミステリーです。
(※ここから先は、物語の核心にふれるネタバレを含みますので、結末を知りたくない方は読み飛ばしてください)
「ジーキル(ジキル)とハイド」と言ったら、今となっては、「善と悪」「二重人格」の代名詞のように使われてすらいるほどの名作ミステリー。
立派な学者で高潔の紳士として名高いジーキル博士は、実は、遊び好きの性格をしていました。でも恥ずかしい思いをするのが嫌で、表向きは立派な紳士の顔を見せていて、裏で遊んでいたのです。
それを科学の力で何とかできないか……、研究熱心でもあったジーキル博士は、人間の善悪を切り離す薬の研究に没頭し、薬を飲むことで「悪の化身」ハイドに一時的に変身することに成功しました。しかも性格の分離に成功しただけでなく、ハイドはジーキル博士とは容貌も背丈もまったく違い、誰が見ても同一人物には見えなかったのです。こうしてジーキル博士は、彼だと見破られることもなく、ハイドとして思う存分「悪」を楽しむことが出来ました。でも、いつの間にか、ハイドの力が強くなってきて……。
恐怖と悲劇の物語です。まあ、自業自得でもありますが……。
子供の頃、この物語を読んで、人間の本性は善と悪のどちらなのだろう、孟子の性善説と荀子の性悪説のどちらが本質に近いのだろう、とさんざん考えさせられました。
その時は、人間の心の中には善悪の両方があるのだと結論づけたのですが、大人になって読み直すと、人間の心の中には「善悪の両方がある」のは確かだけど、どちらかと言うと、「善」の比率の方が多いかな、とも思います。少なくとも私の周囲には、幸いなことに、ハイドのような「悪性」に偏った人間はいません。
でも人間の本質は「善」だけでないことも確かだと思います。性善説と性悪説なら、どちらかというと性悪説を取った方が、世の中を治めやすいと感じています(汗)。なぜなら人間(というか生物)の本質には、「生存欲」があるからです。例えば、二人のお腹のすいている赤ちゃんがいて、その間にミルクの皿を一個だけ置いたら、たぶん奪い合いの争いが起きるのではないかと思います。でもそれは「悪」ではなく、当然のことではないでしょうか。喧嘩のような、一見「悪」に見える行為でも、性格の悪さだけが原因ではないのだと思います。もちろん「お金持ちなのに給食費を支払わない」ような、性格から来ると思われる「悪」もありますが……(汗)。
この物語の中でジーキル博士が、「薬で純粋な悪の人(ハイド)は作り出せたが、純粋な善の人は作り出せなかった。ジーキルは実験前と変わらず、善と悪のまじりあった人だった」と言っているのは示唆的です。「善・悪」は、人間の性格から、単純に分離できるものではないのでしょう。そして「善」でいるためには、適度な休養や楽しみ(ストレス解消)も必要なのだと思います。
でも「生存欲」が根本にある割には、人間の「善性」の大きさも感じます。寄付をするなどして、困っている人に手をさしのべようとする人々も、とても多いですし……。ジーキル博士(ハイド)には、「女の子を踏みつけることって、本当に楽しかった?」と聞いてみたいと思います。私なら楽しいどころか、むしろストレスになると思うのですが……。
また、この物語は、子どもにとって、すごく怖い物語でしたが、「薬」の怖さを知ったことも大きな収穫の一つだったと思います。安易に薬を(作って)飲んではいけない、と子供の頃に強く心に刻み込まれたので、今でも麻薬(クスリ)などを飲もうと考える人の気持ちがよく分かりませんし、知りたいとも思いません。麻薬って、まさにこの物語の「薬」みたいなものですよね、依存性が強いところも……。怖いです。
さまざまなことを考えさせてくれる名作物語です☆