『敬虔な幼子』2002/9/11
エドワード ゴーリー (著), 柴田 元幸 (翻訳)

あまりに純粋で清らかな魂が汚れたこの世から昇天するまでを、ゴーリーさんらしい皮肉なスパイスを加えて描いた絵本です。
(※ここから先は、物語の核心にふれるネタバレを含みますので、結末を知りたくない方は読み飛ばしてください)
汚れたこの世で生きていくにはあまりに純粋な、幼い清らかな信心深い魂が、神に召されて昇天する、というお涙頂戴の場面が、19世紀英米の小説や芝居では盛んに書かれ、演じられたそうです。この『敬虔な幼子』も、一見これと同じように見えますが、どうもそれだけではなく、ゴーリーさんらしいパロディ精神が、あちこちに垣間見えるのです。
というのも、この敬虔な幼子のヘンリー少年。たしかに言動も行動も清らかなのですが、どうも「わざとらしいほど清らか」なんですよねー。なにしろいきなり冒頭のページの文章が、これ。
「三歳になって間もなく、ヘンリー・クランプ坊やは、自分の心が邪であること、にもかかわらず神様は彼を愛し給うことを知りました」
彼は自分の心が「邪」であることに、三歳から気づいてしまっているのです。早熟な子ですね! でも己の邪さに気付くことが出来るほど賢いヘンリー君は、ことさらに「清らかな」言動・行動で、神様にすり寄っていくのです。階上で一人祈ったり、安息日にスケートをしている男の子たちを叱ったり……行動が、頑固なほど宗教にのめりこんでいるお爺さんみたい。まだヘンリー君は幼い子だから、かわいいわね、と大目に見てもらえるかもしれませんが、お爺さんがこういう行動をとったら、頭の硬い偽善者で困ったものだと陰口をたたかれてしまうかも……。
でも安心してください(?)。敬虔な幼子は、幸せにも、神の御許に昇っていくのです……。(彼自身が「僕は幸せです!」と言っているので間違いありません。)
さて、この作品、もともとの著者名は、ミセス・レジーラ・ダウディだったそうです。これはエドワード・ゴーリーのアナグラムで、アナグラムを愛したゴーリーは、他にもいくつかの別名を自分の著者名として使っていたとか。なお、この日本語版がミセス・レジーラ・ダウディではなく、エドワード・ゴーリーで出されているのは、混乱を避けるためだそうです。イラストを一目見れば、ゴーリーさんの作品だと分かるほど、「いつものゴーリーさん」らしい絵なので、混乱を避けてくれて良かったと思います。(たぶん著者名がミセス・レジーラ・ダウディだったら、この本の存在に、私も気づかなかったでしょう)。
この本は、『敬虔な幼子』ヘンリーの美しすぎる魂が昇天した話として、素直に受け止めることも出来ますが、パロディ教訓話として、「神の言葉にあまりにも沿って生きても仕方ないんじゃない?」と皮肉に受け止めることも出来てしまう、という何とも判断に困る絵本です。どちらとして受け止めるかは、あなた次第なのでしょう。え? 私? 私はもちろん「清らかな心」を持っているので、邪に長生きするよりは、清らかに早死するのも悪くないかな、と思っています。もちろん「清らかに」かつ「したたかに」長生きするつもりですけどね(笑)。